宝暦治水に尽くした平田靭負(ひらたゆきえ)

こんにちは、渡辺誠司です。

今年は例年にない大雨でしたね。

近くの木曽川も氾濫していました。

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こうして大雨が去ったときに、ひとつ思うことがあります。

実は、僕が住んでいる地域全体は「海抜ゼロメートル地帯」と呼ばれていて、川の高さと土地の高さが同じなのです。

そのため、昔から水害で悩まされ、

今回のような大雨が降ると、住んでいる家はもちろん、神社仏閣も全部流されてしまっていたのです。

ちなみに、名古屋で有名な大須観音様は、

もともと羽島市桑原町大須にあったのですが、度重なる水害から逃れるため、徳川家康の命令で現在地に移したそうです。

その水害の原因は、

濃尾平野を流れる木曽川、揖斐川、長良川の木曽三川下流で、合流・分流を繰り返していたためです。

そして、1753(宝暦3)年に江戸幕府が

堤防や洗堰を作ることを薩摩藩に命じたのが、有名な宝暦治水(ほうれいちすい)です。

宝暦治水とは、

薩摩藩の力を殺ぐための徳川幕府の計略でもあったと言われていますが・・・

薩摩藩家老平田靭負(ゆきえ)が一身に責任を負い1755年に工事を完成させた一大事業です。

幕府のいやがらせと分かっていても、「民に尽くすもまた武士の本分」と家臣を説得し、

縁もゆかりもない他国のお手伝い普請で、多数の薩摩藩士が死んでいきました。

また、莫大な工事費の出費により、

薩摩藩の財政を悪化させた責任を取って、母国に手紙を送った翌日に平田靭負も自害したそうです。

母親の実家でもある、

海津市平田町の由来は、平田靱負総奉行の姓をもらって遺徳を末永く尊ぶ意味を込めて「平田町」になったそうです。

こうして考えると、

今、何事もなく生活し豊かに暮らせるのは、当たり前のことではなく特別豊かなことだと思います。